「暇と退屈の倫理学」を読んで、ワーホリ決断を振り返る

ニュージーランド

こんにちは!

最近、「暇と退屈の倫理学」というベストセラーな本を読みました。

いろんな哲学者たちが妄想する「暇とは何か?」「哲学とは何か?」についてわかりやすく面白く書かれた本です。

はっきり言って、めちゃくちゃに面白かったのでおすすめです。

そしてこれまた最近、Webエンジニアとしてのキャリアを手放し、ニュージーランドでのワーキングホリデーに向けた決断をしました。

これは、ただの仕事の転換というよりも、私自身の内面との対話、そして人生における「秩序」と「無秩序」をどのようにバランスを取るかという、根本的な問いに対する一つの答えです。

そしてこの決断は、ハイデッガーの哲学的な「決断」第三形式の退屈(自由)」から逃れる話や、老荘思想や禅宗、仏教の「中道」の教えと深く関連しています。

老荘思想と禅宗が示す「無為自然・渾沌」と「決断」による秩序

この本では登場していませんが、西洋哲学と並んで、東洋哲学(思想)である老子荘子の取る老荘思想などとも関わりがあるなーと個人的には思ったで、そちらもまずは紹介させてください。

老荘思想や禅宗において、無為自然渾沌といった概念は、自然のままに存在することを尊重し、物事に対して過剰に干渉せず、コントロールを手放すことを強調しています。

これは、自然や人生に対する柔軟な態度を反映しており、何かを強引に支配するのではなく、状況や流れに身を任せる姿勢です。

禅宗でも同様に、日常の些細な事柄にまで意味や目的を求めるのではなく、今この瞬間に集中し、ありのままを受け入れることが大切だとされています。

無為自然や渾沌の中で生きることは、何かを「決断」して秩序を作るのとは対照的に、無理に計画や目的に縛られることなく、自然のリズムに沿って漂うように生きることを奨励しています。

ここで「決断」という言葉を重要視しているのは、後述する大西洋哲学者・ハイデッガー様が多用しているキーワードだからです。

ハイデッガーさん、感情・郷愁を重んじるエモい哲学者で、この本を読んでてそこに惹かれました。

ハイデッガーは決断をすることで自由から逃れ、ある一定のルール・環世界に自分を盲目的に入り込ませることで退屈から人間は逃れようとしている。と述べています。

しかしながら、私たち人間は、ハイデッガーが指摘するように、無秩序や混沌を完全に受け入れることができるわけではありません。

私たちはしばしば「決断」を通じて、秩序や目的を求めます。

決断することで、私たちは混沌や無秩序から逃れ、ある種の安定したフレームワークの中で生きることが可能になります。決断は、盲目的に流されるのではなく、自らの意思で行動を選び、人生に方向性を与える行為です。しかし、ここで重要なのは、この「決断」による秩序と、「無為自然」に身を任せる無秩序とのバランスです。

ハイデッガーの「決断」と「退屈」

ハイデッガーの3つの形式の退屈

ハイデッガーは、退屈を3つの形式に分類し、人間がどのように「存在」と向き合うかを考察しました。

  1. 第一形式の退屈:これは、具体的な状況で感じる退屈です。たとえば、駅で電車を待っているときや、何かをしているのに退屈を感じるような状況です。時間が遅く進むように感じるこの退屈は、特定の活動における暇を意味しています。
  2. 第二形式の退屈:何かを終えた後に感じる退屈です。たとえば、一日を過ごした後や、特定の目標を達成した後、「時間を無駄にしてしまった」と感じるような状態です。ここでは、過去に対する反省があり、充実感を得られなかったと感じることで生じます。
  3. 第三形式の退屈:これはもっと深いレベルの退屈で、「なんとなく退屈だ」と感じる漠然とした状態です。特定の状況や行動に結びつかず、人生そのものが無意味に思えるような感覚です。ハイデッガーはこの第三の退屈が、私たちが「存在そのもの」を問う機会を与え、人間が自己の本質と向き合うための重要な契機となると考えました。

ハイデッガーの哲学では、決断は人間にとって重要な行為です。

決断は、無秩序や混沌から抜け出し、明確な方向性を持つための一つの手段です。

特に、彼が語る「第三形式の退屈(自由)」からの脱出としての決断は、無限の自由がもたらす不安や虚無感を克服するための方法とされています。人間は、自由すぎる状態や、何も決められない状態に置かれると、深い退屈や不安に苛まれます。そのため、ある意味では「秩序」を自らに課すことで、安心感を得ようとします。

ぼく自身も、Webエンジニアとしての仕事を続けながら、リモートワークで一人になる時間が多かったため、常に自分自身と向き合う機会がありました。

特に「時間の奴隷」となることなく、メタ認知を通じて自分の状況を客観的に観察することができたのは、リモートワークという働き方の恩恵だったかもしれません。

その結果、ニュージーランドに行くという「決断」を下すことができました。これは、私にとって新しい秩序を作り出す大きな一歩であり、これまでの混沌から抜け出すための重要なプロセスでした。

仏教の「諸行無常」と「中道」

一方で、仏教の教えが示すように、この世界は諸行無常、すなわちすべては変化し続けるものです。

この視点では、ぼくたちがどれだけ「秩序」を作り出そうとしても、その秩序は常に揺らぎ、変化にさらされます。だからこそ、仏教は「中道」を説き、極端に走ることなく、動的なバランスを取りながら生きることが重要であると教えています。

中道は、過度に秩序を追求することも、無秩序に流されることも避け、その中間に位置する道を歩むことです。この教えは、老荘思想の無為自然やハイデッガーの決断の概念と共鳴しており、人生におけるあらゆる状況でバランスを保つための指針として機能します。

結局、ぼくがワーキングホリデーを決断したのも、秩序と無秩序の間で揺れ動く中で、自分自身にとっての中道を見出すプロセスだったのかもしれないなーと思います。

無秩序にただ身を任せるだけでは不安や焦燥感が生じ、逆に過度に計画や目標に縛られると、自然なリズムや創造性が失われる。そのため、私は「決断」という行為を通じて、自分にとっての適切なバランスを取り戻そうとしたのです。たぶん。

決断と退屈を乗り越えるための旅

決断をした後、ぼくはなんというか「一時的な安心感」と「新しい秩序」みたいなものを手に入れました。

しかしながら、この決断がすべてを解決するわけではなく、今後もハイデッガーが指摘したように、「第一形式の退屈」や「第二形式の退屈」が待ち受けています。何かを待つ退屈や、目標を達成した後の空虚感は、どれだけ秩序を作り出しても避けることができない現実なのです。辛い。。

しかし、この退屈との向き合い方も、私にとっては一つの楽しみでもあります!ドMじゃないですよ!

退屈が訪れるたびに、私はまた新たな「決断」を通じて、自分にとってのバランスを見直し、漂うように新しい道を選ぶことができるでしょう。老荘思想や禅宗の教えが示すように、無理に秩序を維持しようとするのではなく、必要な時に無秩序を受け入れ、自然な流れに身を任せることが、次の一歩を見つける鍵になると思っています!

終わりに

ニュージーランドに行くという決断は、単なる職業の転換ではなく、私にとっては迷いというか、自分の中の問いに対する一つの答えだったのだと思います。

秩序と無秩序、混沌と決断の間でバランスを取ることこそが、私の人生にとって重要であり、そのための選択肢としてこの決断を下しました。

仏教の中道、老荘思想の無為自然、そしてハイデッガーの決断に基づいて、私はこれからも動的なバランスを保ちながら、新たな挑戦に向かって進んでいきます。

漂う!!!!

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