こんにちは!すぎたです。
今回は、最近、掃除に目覚めてしまった自分のことに関するお話をします。
掃除、マジで終わった後気持ちいい。全人類やってくれ。。
掃除にはまったきっかけとなった本
元々、仏教の思想、特に禅宗に関する思想が好きで、たまたま気になった下の本を読んでいました。
実際、禅宗ではお坊さんたちは朝早くを含め、1日に何回か、掃除のスケジュールを持っています。
そして掃除自体は瞑想のような修行の一環でもあります。
実際、禅には「行住坐臥」という言葉があります。
これは「日常の全てが修行・瞑想の一環であること」という意味です。
このように禅と掃除に関する内容が書かれており、最初はなんとなーくで読んでおりました。
具体的には、自分の生活において物を整えておくためには、以下の二つであるとこの本からは感じ取りました。
- 必要なもののみを残し、いらないものは捨てる
- 必要なものはきちんと手入れをする
「ものは手入れしていない、使っていないなら失礼」
まず、掃除の大前提として、使ってないものは捨てるべきだと思っています。
これは禅のミニマリズム的な精神と同じです。
具体的には「放下」という言葉が存在します。
禅における「放下(ほうげ)」とは、文字通り「手放す」「下に置く」という意味で、執着やこだわりを捨てることを指します。これは、物質的なものだけでなく、心の中で抱えている欲望、感情、思考、固定観念といったものを手放すという精神的な行為です。
放下の核心は、何事にも執着しないことであり、物事に対する過度な執着やこだわりが、私たちの心を不自由にし、苦しみを生む原因となるという仏教的な教えに基づいています。禅では、この執着を解放することで、心が軽くなり、真の自由と平静を得ることができるとされています。
たとえば、座禅を組んで瞑想する際、思考や感情が浮かんできても、それにとらわれず、ただそれを観察し、やがてそれを「放下」することが理想とされます。この行為は、単に心を空っぽにするのではなく、あらゆる事象や感情に対して「執着しない」態度を育てることを意味しています。最終的には、自分自身や世界に対してもとらわれず、自由に生きることができる状態に到達することを目指しています。
簡単に言えば、放下とは「手放し、自分を解放する」ことです。
そしてこれは以前からもとても同意していました。本当に使うものだけを手元に置いておきたい、という考えですね。
手入れ不足への気づき
しかしながらぼくは、その最小限に大切にするべきものに対して「手入れ」するということを怠っていたことに気づきました。物が少ないから管理コストは低いのだけれど、「管理しなくていいやー!」の精神が行きすぎて掃除をサボっていたわけですね。
いやはや、恥ずかしい。。
また、お手入れをするときはできれば字の如く、自分の手でお手入れ・掃除するべきだと思います。
なぜならその方が愛着が湧くからです。
オフィスなど、他の人が掃除してくれている環境って、あまりありがたみがわからないと思いますが、清潔にしている自分のテーブルや、引き出しの中、部屋などはちゃんと自分の所有物、という自覚が湧きますよね。
物理的なものではなくても、仕事で自分がオーナーシップを持っているプロジェクトや、プログラミングコードなんかも正直、ぼくはかなり愛着を持っています。
それもあって、ぼくは禅の精神に倣って、必要最小限の掃除道具で掃除することにしました。
掃除道具も愛着を持てるようなものを
具体的には、ロボット掃除機を持っていたのですが、正直あまり使っていませんでした。
よって、これを機にジモティーで譲渡してしまいました。
さよなら、ロボット掃除機さん。。
いらなくなったものは、実は欲しい人が周りにたくさんいたりします。ジモティーなどのフリマアプリであれば写真を撮ってちょこちょこっと説明文を書いて引き取りに来てくれる人を募集するだけなので、かなり楽ですよ!
そしてタイトルにもなっている通り、新たにうちに座敷ホウキちゃんを導入しました。
実家では昔、ばあちゃんが座敷ホウキで隅々まで朝に掃除していたことを思い出し、それで懐かしくなったからです。座敷箒の羽の部分?は「ほうき草」という素材でできているのですが、それがまた畳の香りのように、なんだかいい香りと色合いを醸し出してくれるのです。これがたまらん!
それと、雑巾も新しく買いました。ぶっちゃけ雑巾は買わずとも、いらない服とかでもよかったかなーとは思っています。
掃除していると、なんだか、学校の授業後の掃除タイムを思い出して、マジで懐かしくなります。
あの頃は掃除の時間、結構好きだったなー。なんか掃除タイムの校内BGMとか流れてたりして。。
禅宗以外の仏教での掃除の立ち位置は?
実際、仏教の一派である禅宗に限らず、オリジンである原始仏典においても、釈迦(お釈迦さま)は掃除や清潔さの重要性を説いていました。
ブッダ(お釈迦様)も「掃除めちゃ大事!」って言ってたわけですね。
釈迦は弟子たちに対して、身の回りの環境を清潔に保つことが心の修行にも繋がると教えています。
例えば、『マハーパリニッバーナ経』などの原始仏典には、釈迦が弟子たちに掃除を奨励する場面が記録されています。この経典では、釈迦がある弟子に、他の僧たちの汚れた衣服を洗ったり、掃除をしたりすることが心の修行として重要であると教える場面があります。
掃除を通じて、心の乱れを鎮め、穏やかな心を育てることができるとされているそうです。
掃除は、ただの物理的な作業ではなく、心の浄化や自己訓練の一環とされ、心身を整え、清らかな状態を保つための修行と位置づけられています。このように、掃除は仏教の教えの中で、身体と心を整え、心の煩悩を取り除くための重要な実践として強調されてきました。
実際に手入れや掃除の楽しさに気づいてからの生活
朝は始業前(朝8時ぐらい)に雑巾と箒で30分ぐらいかけて、掃除をしています。
普段使っている仕事机やご飯を食べるときの机など、雑巾で汚れていなくてもとりあえず拭きません。もう、無心でフキフキです。
そしてその後、座敷ホウキでささっと床をはらいます。
猫を飼っていることもあってか、ほんと次の日になると埃が復活していて、毎日たくさん埃をキャッチできます!
これはこれで毎日やりがいがあるので、自分的には嬉しいです。
そしてキッチンシンクなど、汚れたら必ずその瞬間にその汚れを除去することを心がけました。
そうすると汚れが固まらず、常にピカピカの状態になります。
仕事はフルリモートで家で作業をしているのですが、午後の疲れた時はよく掃除をするようになりました。
凝り固まっている体の良い運動にもなりますし、気分もかなりスッキリします。
そしてまた仕事を再開すると、なんだか捗るのです。良い事づくめすぎる。。!
まとめ
これまでの記事でも似たようなことを言っていますが、この掃除の大切さに気づいたときに「手入れ」をする楽しさを実感しました。
「これがうちの愛車!」とか言っている世のパパさんたちが、週末にいつもピカピカにしている人の気持ちがそれまでは全くわからなかった
しかし今ではその気持ちが良くわかります。
汚くなくてもピカピカにしたくなる気持ちも良くわかります。
だって、その方がスカッとするんだもん。